わが校の応援歌の出自について
             昭和35年卒(30期生) 工藤茂宣

筆者略歴
昭和三十五年能代高校卒
昭和四十一年弘前大学医学部卒
昭和四十六年弘前大学大学院医学研究科修了
昭和五十五年工藤泌尿器科医院開設
「能代寮歌を愛する会」幹事

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能代高校同窓会報「松陵」に第10号から12号まで3回にわたり掲載された記事を転載します。
できる限り原文を忠実に再現しましたが、凡人には読めない漢字が多く,誤字脱字があるかと思いますが,お許しください。すべてテキスト化した私袴田の責任です。ご指摘事項がありましたら、ご一報ください。

  ・わが校の応援歌の出自について (松陵第10号掲載 平成10年12月20日)
  ・「わが校の応援歌の出自」に対してのご教示 (松陵第11号掲載 平成11年12月20日)
  ・三たび「わが校の応援歌のルーツ」について (松陵第12号掲載 平成12年12月20日)


わが校の応援歌の出自について

 本「松陵」第九号に、秋元校長が本校校歌の作詞者、作曲者についての秘話を載せておられる。
 校歌、応援歌等にはオリジナルなものもあるが、メロディーを拝借している歌がかなり見受けられる。
 ちなみに、小生が小学校の運動会で歌った応援歌は物心が付いたら帝国陸軍の「歩兵の本領」と言う軍歌のメロディーの拝借であった。岩手県の某有名高校の校歌は、帝国海軍の「軍艦マーチ」だそうである。また、本荘高校の校歌は、旧制第一高等学校の寮歌「緑もぞ濃き」のメロディーをそっくり転用しているという本を読んだ。小生は「緑もぞ濃き」を歌えるから、歌詞を見ればすぐ本荘高校校歌を歌えることになる。
昔、米内沢高校出の大学の同級生がいつも口ずさんでいた米高の応援歌は、一高の「筑紫の富士」が元歌だと後年気づいた。
 さて、わが校の応援歌であるが、平成二年三月同窓会発行の歌集には、全曲に楽譜は付いているが、作詞、作曲者の明記は校歌と遠征歌の二曲のみである。
 まず、「戦わん哉」のメロディーは、明治四十年作の旧制第四高等学校(金沢市)の寮歌「南下軍の歌」からの拝借である。但し、「戦わん哉」の方が非常に歌いくずされている。楽譜も比較してみたがかなり異なる。しかし、抑揚はほぼ同じである。歌いくずされた現実の「戦わん哉」に合わせて採譜したとのことである。
 四高出身の故平川民治氏が能中の応援歌として採り入れたと聞いている。作詞者はだれか。
 今年十月二十一日に金勇で行われた「能代寮歌を愛する会」(会長 神馬恒成)では、ゲストの四高の方に、先に元歌である「南下軍の歌」を歌って戴き、ついで我々能中、能高出が一戦わん哉一を歌って大変楽しかった。
 次に、「北羽に吠ゆる」であるが、これは大正二年作の旧制第六高等学校(岡山市)の寮歌「新潮走る」のメロディーの拝借である。この歌はほとんど歌いくずされていない。楽譜は能代の方にb印が三個付いていて、原曲には付いていない。音程の高低だけの問題である。能代中学に六高出身の先生がいたものであろうか。どういう経緯でわが校の応援歌に岡山市にあった六高の寮歌が採り入れられたものであろうか。また作詞者は誰か。
 三番目に、「凱歌」天馬空征く/雄たけぴに…である。結諭として、このメロディーは、「一高水泳部部歌」狭霧はれゆく…が元歌である。これは、小生が一高のある方の追悼寮歌祭のビデオテープを見ていて気付いた。ただし、歌詞はわが校は五行、部歌は七行である。検討するに、部歌の三、四行目は、一、二行目の反復であった。わが校の「凱歌」は、部歌の三、四行目を省いたものである。能代高の同窓会の時に、佐々木満先生に小生が報告したら「部歌の作詞者末広厳太郎は東大の大民法学者だよ」と事もなげにおっしゃられ、驚いた。
 平成九年五月の「能代寮歌」では、ゲストの一高OBの方二人に「一高水泳部部歌」を先に歌って戴き、続いて宮腰洋逸能代市長の「母なる歌、父なる歌を聞かせて戴いた」との挨拶のあと、市長を先頭に高らかに凱歌を歌ったのであった。今年も金勇で同じく市長を先頭に歌った。しかし、水泳部部歌は水泳部らしく、カッパ踊りを踊りながら歌うのである。どういう経緯でわが校の凱歌となったのか甚だ奇妙に思うのである。作詞者は?
 ところで、以下の二曲は小生が能高在校中教えられなかった曲、知らなかった曲である。
 今年十月二十七日に能代市の平安閣で行われた「佐々木満先生を囲む会」で、野球部OBの方々が大勢壇上で満先生と共に応援歌等を歌った。一枚の歌集を戴いた。まず、「青春の歌」勝ちては君の胸に泣き/敗れて運命を恨み泣く/樽子の山に住み慣れて/涙にもろき児となりぬを聞いてびっくりした。これは旧制冨山高校の「丘の團欒(まどい)」の三番であることが聞いていてすぐにわかった。劔ヶ丘に住み慣れてを 樽子の山に替えている。各地の寮歌祭で必ず歌われる名寮歌である。ついで、その壇上で「逍遥歌」が歌われた。洛陽寒く黄昏て/雪や比叡にかかる時 である。平川氏が四高から能中に持ってきたとの事、手持ちの四高の寮歌集のCDを調べてみた。「剣道部優勝歌」という曲が「逍遥歌」と全く同じ歌詞で歌っている。確認のために金谷晴隆先生に電話口で「逍遥歌」を歌って戴いたらメロディーも全く同じであった。元歌は大正十二年の「剣道部優勝歌」を歌詞ごと拝借したものに間違いない。ただ、元歌は優勝歌なのになぜかテンポが遅く明るくない。金谷先生の歌う「逍遥歌」の方が、その豊かな声量のせいか明るく聞こえる。ある時期に「敗戦歌」としても歌われたと聞いているが、重く暗い印象を受けるので無理もない。歌詞にあるごとく、涙と血とで勝ち得たので、昂まる気持ちをぐーっと抑えた悲壮な優勝歌なのであろう。平川氏は四高で剣道部であったのであろうか。
 以上、「能代寮歌を愛する会」の幹事をやって全国の旧制高校の寮歌に親しんでいたら、自然に能中、能高の応援歌の元歌に行き当たった。先輩諸兄には、その他の経緯などをもっと詳しく知っておられる方がたくさんおられると思う。機会があればこ教示戴きたい。
 この文を寄稿するにあたり、続隆(二十一期)、金谷晴隆(二十四期)両先生のお世話になりました。


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