松陵第9号より転載
校歌について(秋元正英:記)全文

この頃、歳のせいだろうか、日本の抒情歌を聞きたいと思うことが多い。ある休日のんびり聞きながら解説書を見ていたら  岡野貞一  という名前が飛び込んできた。
どこかで見た名前だが思い出せない。しばらくして本校の校歌の作曲者であることを思い出した。
秋田県立能代中学校交友会発行の交友会誌第弐号(第一期卒業生 畠山哲也氏から拝借)によると、校歌は大正15年7月制定を決め、  歌詞は知名の大家に作って貰う事となった。
そして選びあげられたのが現代の国文学の大家、東京帝大の藤村作博士である。曲も先生の御知り合ひの音楽校教授岡野貞一先生に藤村先生から特に御願ひしてくださって今のような立派な歌詞と曲
、かみしめればかみしめる程妙味津々たるものができたのである。
(原文のまま転載)と書かれている。
本校の校歌がどうして藤村教授の作詞であり、岡野教授の作曲によるものなのか、その謎を知りたいと思っていたので、交友会誌第二号を拝借できたことはありがたかった。
藤村教授は本校に勤務していた今福兼蔵先生の東大時代の恩師にあたる方で今福先生が藤村教授に能代の様子を語り、更にメモしたものを渡して出来上がったのが

そのかみ遠し  数千年
つきせぬ流れ  米代の

の校歌歌詞である。
岡野さんは明治11年(1878年)鳥取市に生まれ、明治29年(1896年)東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽部)に入学同校卒業と同時に研究科に入り、明治38年(1905年)助教授となり、文部省唱歌編纂委員となり、次々と唱歌を作曲、大正12年(1923年)教授に昇任、昭和16年(1941年)急性肺炎で死去、享年64歳であった。ちなみに滝廉太郎は音楽学校で岡野さんの三学年先輩であった。岡野さんが作曲したものに

  朧月夜  (菜の花畑に入日薄れ)
  春がきた (春がきた、春がきた)
  故郷   (兎追いしかの山)
  紅葉   (秋の夕日に照る山紅葉)

等がある。
 本校校歌の秘話の一説である。 

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